第5回 最後に。誰もが弔われる社会のために <連載・最終回> 失われゆく『弔い』について考える

この連載では、弔いが薄れつつある現代社会の姿を見つめながら、その背景や課題、そして弔うことの意味について考えてきました。

葬儀の簡素化、家族や地域の変化、樹木葬の広がり、そして「弔われる権利」という視点・・・それらを通して見えてきたのは、弔いが“なくなった”のではなく、“形を変えながら迷っている”という現実です。

では、これからの社会で、誰もが弔われるためには、何が必要なのでしょうか。

目次

弔いは特別な人のものではない

まず大切なのは、弔いは「家族が多い人」や「立派な人生を送った人」だけのものではない、という認識です。

社会的な肩書きがなくても、家族がいなくても、人は生き、悩み、誰かと関わりながら人生を終えます。その一つひとつが、等しく尊重されるべきものです。

誰もが弔われる社会とは、
「生き方の大小を問わず、存在そのものを認め合う社会」
だといえるでしょう。

「弔ってくれる人がいない」という不安

現代では、「自分が死んだとき、誰が弔ってくれるのだろう」と不安に思う人が少なくありません。単身世帯の増加や人間関係の希薄化は、死後の孤独への恐れを強めています。

しかし、弔いは必ずしも“血縁”だけに委ねるものではありません。友人、知人、地域、あるいは専門職や宗教者など、関係性の形は多様であってよいのです。

重要なのは、「誰かがその死を受け止める仕組み」が社会に用意されていることです。

小さな弔いを大切にするという選択

誰もが弔われる社会をつくるために、必ずしも大きな制度や派手な儀式は必要ありません。

むしろ、日常の中の小さな弔いこそが、これからの社会を支える力になります。

たとえば、

  • 命日を覚えている
  • 写真の前で手を合わせる
  • 名前を口にして思い出を語る
  • 好きだった花を供える

こうした行為は、とても静かで個人的なものですが、確かな弔いです。

弔いとは「儀式を行うこと」ではなく、「忘れないこと」なのかもしれません。

弔いは生きている私たちのためにある

弔いは、亡くなった人のためだけにあるのではありません。

それは、生きている私たちが悲しみを整理し、人生を前に進めるための時間でもあります。

誰かを弔う経験を通して、人は

  • 命の有限さを知り
  • 他者の痛みに想像力を持ち
  • 生きている時間の尊さを再確認します

弔いがある社会は、死を遠ざける社会ではなく、生を大切にできる社会なのです。

社会としてできること、個人としてできること

誰もが弔われる社会を実現するためには、制度や仕組みも重要ですが、それ以上に一人ひとりの意識が問われます。

  • 弔いを「面倒なもの」と切り捨てない
  • 死を話題にすることを避けすぎない
  • 自分自身の最期について考えてみる

こうした小さな意識の変化が、弔いを社会に取り戻していきます。

まとめ ― 弔いは社会のやさしさの指標

誰もが弔われる社会とは、完璧な社会ではありません。
けれど、弱さや孤独、死に対して目をそらさず、受け止めようとする社会です。

弔いのあり方は、時代とともに変わります。それでも変えてはいけないものがあります。

それは、

「あなたの人生には意味があった」
「あなたは一人ではなかった」
と伝えようとする気持ちです。

その気持ちがある限り、弔いはどんな形であっても生き続けます。

そしてそれこそが、誰もが弔われる社会への、確かな一歩なのではないでしょうか。

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