この連載では、弔いが薄れつつある現代社会の姿を見つめながら、その背景や課題、そして弔うことの意味について考えてきました。
葬儀の簡素化、家族や地域の変化、樹木葬の広がり、そして「弔われる権利」という視点・・・それらを通して見えてきたのは、弔いが“なくなった”のではなく、“形を変えながら迷っている”という現実です。
では、これからの社会で、誰もが弔われるためには、何が必要なのでしょうか。
弔いは特別な人のものではない
まず大切なのは、弔いは「家族が多い人」や「立派な人生を送った人」だけのものではない、という認識です。
社会的な肩書きがなくても、家族がいなくても、人は生き、悩み、誰かと関わりながら人生を終えます。その一つひとつが、等しく尊重されるべきものです。
誰もが弔われる社会とは、
「生き方の大小を問わず、存在そのものを認め合う社会」
だといえるでしょう。
「弔ってくれる人がいない」という不安
現代では、「自分が死んだとき、誰が弔ってくれるのだろう」と不安に思う人が少なくありません。単身世帯の増加や人間関係の希薄化は、死後の孤独への恐れを強めています。
しかし、弔いは必ずしも“血縁”だけに委ねるものではありません。友人、知人、地域、あるいは専門職や宗教者など、関係性の形は多様であってよいのです。
重要なのは、「誰かがその死を受け止める仕組み」が社会に用意されていることです。
小さな弔いを大切にするという選択
誰もが弔われる社会をつくるために、必ずしも大きな制度や派手な儀式は必要ありません。
むしろ、日常の中の小さな弔いこそが、これからの社会を支える力になります。
たとえば、
- 命日を覚えている
- 写真の前で手を合わせる
- 名前を口にして思い出を語る
- 好きだった花を供える
こうした行為は、とても静かで個人的なものですが、確かな弔いです。
弔いとは「儀式を行うこと」ではなく、「忘れないこと」なのかもしれません。
弔いは生きている私たちのためにある
弔いは、亡くなった人のためだけにあるのではありません。
それは、生きている私たちが悲しみを整理し、人生を前に進めるための時間でもあります。
誰かを弔う経験を通して、人は
- 命の有限さを知り
- 他者の痛みに想像力を持ち
- 生きている時間の尊さを再確認します
弔いがある社会は、死を遠ざける社会ではなく、生を大切にできる社会なのです。
社会としてできること、個人としてできること
誰もが弔われる社会を実現するためには、制度や仕組みも重要ですが、それ以上に一人ひとりの意識が問われます。
- 弔いを「面倒なもの」と切り捨てない
- 死を話題にすることを避けすぎない
- 自分自身の最期について考えてみる
こうした小さな意識の変化が、弔いを社会に取り戻していきます。
まとめ ― 弔いは社会のやさしさの指標
誰もが弔われる社会とは、完璧な社会ではありません。
けれど、弱さや孤独、死に対して目をそらさず、受け止めようとする社会です。
弔いのあり方は、時代とともに変わります。それでも変えてはいけないものがあります。
それは、
「あなたの人生には意味があった」
「あなたは一人ではなかった」
と伝えようとする気持ちです。
その気持ちがある限り、弔いはどんな形であっても生き続けます。
そしてそれこそが、誰もが弔われる社会への、確かな一歩なのではないでしょうか。










